天降川 川筋直し

(JST) 更新 / (JST) 公開

※ トップの画像 : 参宮橋から見た南側の天降川 – 手前の橋はJR日豊本線、奥の山は桜島、右側の高い建物はホテル京セラ、左端はソニーの工場

霧島市の国分、隼人町にまたがる平野 (国分平野) の中央には、天降川(あもりがわ)という川 (二級河川) が流れています。

現在、天降川は、参宮橋の北側で手篭川(てごがわ)と合流し、北から、参宮橋、JR日豊本線、天降川橋 (ソニーの工場やホテル京セラの近く)、野口橋、しらさぎ橋、新川橋 (国道10号線)、東九州自動車道の下を流れ、錦江湾に注いでいます。

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川筋直し 天降川と手篭川の合流地点
参宮橋から見た北側の天降川 – 左側が天降川、右側が手篭川

かつて、天降川は、広瀬川と呼ばれており [1]、江戸時代初期まで、現在の参宮橋の北側 (手篭川と合流する辺り) から、霧島市役所 (国分シビックセンター) の方へ流れ、中洲をつくって、現在の水戸川河口付近 (国分海浜公園の西側) で、錦江湾に注いでいました。

川筋直し 川筋直し 国分平野 開拓之碑 (昭和53年9月 国分市長 林 昌浩)
天降川の旧河道 (霧島市国分中央三丁目の石碑「川筋直し 国分平野 開拓之碑 (昭和53年9月 国分市長 林 昌浩)」より)
川筋直し 天降川川筋直し絵図
天降川川筋直し絵図 (天降川橋上の案内板「天降川川筋直し絵図」より)

しかし、霧島火山やシラス台地が含まれる流域には急傾斜地が多く、また、地盤がもろく、台風等の集中豪雨によって、たびたび氾濫して、多大な被害を受けていました [1]。

この惨状は、国分の地頭 喜入休右衛門久守によって、家老の島津久通(しまづひさみち)に告げられ、1662年 (寛文2年) に洪水防止と新田開発の目的で、広瀬川の流路変更の工事が始められ、1666年 (寛文6年) に完工しました [1]。

広瀬川の流路変更のことを「新川掘り川筋直し [2]」、または、単に「川筋直し (かわすじなおし)」といいます。

川筋直しの後、川名は、新川 (しんかわ) と改められました [2]。現在でも、お年寄り (20世紀前半生まれ) には、天降川を新川と呼ぶ人もいます。

この工事に関連し、郡田川、手篭川を小松原で合流させて、新川に流し、松永用水路、平溝、重久溝、小村新田干拓等の工事が行われました [2]。

霧島市役所の辺りには、川跡(かわと)という地名があり、現在でも、かつて、旧天降川が流れていたことを知ることができます。

川筋直し 国分川跡交差点
以前、角にふぁみり庵はいから亭 国分店があった交差点名は、国分川跡(こくぶかわと)です。

参考文献

  • [1] 天降川橋上の案内板「天降川川筋直し絵図」
  • [2] 霧島市国分中央三丁目の石碑「川筋直し 国分平野 開拓之碑 (昭和53年9月 国分市長 林 昌浩)」